さとらないの日々

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いまの漢方の流派は4つだよ

先日アレルギー性鼻炎の講演で、まくらを考えていたんですが、そのまくらをワープロに書いたので、ここに載せておきます。
 ひまだったら、読んでね。

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皆さんこんにちは。
今日は、漢方をよく知らない方もいるようなので、日本の漢方の現状を少しばかり話したいと思います。
今、日本では、大きく分けて4つの流派があります。一つ目は、後世方派、つぎに古方派、そして考証学派、あと最近多くなってきた中医学があります。これらの流派は歴史的な背景がありまして発生してきました。少しこの辺をお話しておきます。

つい先日、TBSでJINという番組をやっていました。いまもBSでやっているようですが、これを見た方、おられますか?おおお、おられますね。
 あの番組は、幕末の江戸に、現代の脳外科医がタイムスリップしてしまう話です。主役の南方仁さんは、医療機器も最新の薬もなにもない時代に降り立ち、孤軍奮闘し、エーテルや消毒用の焼酎などで、カナノコとノミで頭の手術までしてしまう。あのエーテルってどこにあったのかも不思議ですが。
 またアオカビから、ペニシリンを抽出して女郎の梅毒をなおす。もう何でもやってくれっていうぐらいとにかくすごい。

 その中で、緒方ゲンアンら蘭方医と敵対している漢方の大御所こそが、それが日本の最高の、いやあの当時は世界的に診てもトップクラスの医師であり、漢方家だったのが、多紀元堅ですね。

 多紀元堅は、折衷派とよばれておりますが、なんの折衷かと申しますと古方派と後世方派の折衷。古方派と後世方派は、どんな感じだったかと申しますと、安土桃山時代から江戸時代初期に、中国の金元の医学(李朱医学ともよばれますが)が日本に広まりました。それまで坊主が医者をかねていたんですが、その頃から頭を丸めない漢方医が出来てきました。曲直瀬道三とか、田代三喜さん。この方たちの広めたのが、後世方派と呼ばれています。曲直瀬道三がかいたとされる「衆方規矩(しゅうほうきく)」は、江戸時代、生薬問屋には必ず置いてありまして、びにいりさいにいり、こんな病気にはこの処方がいい、風邪を引いたらまず香蘇散を飲ませて様子を見る。頭が痛ければセンキュウ・ビャクシを加えるなどなど、今でも読み物としても面白い。

 そして江戸も中期に入りますと、古方派と呼ばれる、傷寒雑病論を中心の経典にした一派が生まてくる。古方派といっても、後世方派より後に生まれました。彼らは「理論なんかいらねえ。治ればいいんだ。それには経験的で実践的な古典の傷寒論に帰るのが本筋だ」ととなえ、理論が少ない実践的な傷寒論という経典から学ぼうとしたんです。なぜこんな一派が生まれたのかは、時代の流れがあります。
 江戸時代は、皆さんもご存知のように鎖国をしておりまして。人は他人の言うことを聞かなくなると、大体、独自な、変わったおかしな考え方をするようになるようでして。
 江戸時代初期は世の中、朱子学というのが主流になり、侍はみな学ぶようになって官学化し、昌平坂学問所では朱子学を中心において拡充されるようになったのですが、朱子学というのは「宇宙は理によって成り立っている」と唱えた学問なんですね。
 理とは、物理の法則みたいなもので、「自然の理があるように、人間にも理がある。だから理を追求しよう」といって、道徳的なことも思弁的になっていきました。
 それから思弁的なものを批判する一派、荻生徂徠とかの古学派というのが登場してきまして、理屈よりも経験をよりどころにすべしと、論語などの原典にもどることを主張したんですね。難しい理屈よりも、実践が重んじられる。

 そして医学の分野も、それまでは中国(金元)の医学を受けて、陰陽五行論五臓六腑論など理論的な李朱医学が中心になっていたんですが、これに反発する古方派がでてくる。「陰陽論は天地の気だから、体には関係ない」と言い出した。吉益東洞らは「陰陽は天地の気なり、医にとること無し」といって、我々のいる宇宙と同じように、人間の中は小宇宙であるとする、「人間=小宇宙」の人間観を否定していくんです。
 そして古典の傷寒論にある理論だけを取り上げた。経験的、実証的な治療医学こそが漢方の本流であると言って。
 ただ、こういう経験至上主義が、のちの蘭学に取って代われる原因をまねいたとも言われています。

 そして江戸時代の後期になりますと、そんな古方派とさらに後世方派も、どっちも大切にしようという学派がうまれる。それがJINに出てくる多紀元堅らの折衷派と呼ばれる人たち(考証学派ともいうんですが)が出てきた。かれらは傷寒論金匱要略などの経験実証医学も大切にするし、李朱医学の陰陽五行論五臓六腑論なども大切にしていいところを取り込んでしまおうとした。
そんな彼らは、漢方の五経と呼ばれているすべての経典を深く読み取り、実力的にも世界一の医学を学んでいたと思います。また将軍の侍医となり、飛ぶ鳥も落とす勢いがありました。
地方から出てきて医学を学ぼうとする若者は、こぞって医学館の門をたたき、書かれた書物は、中国でも高く評価されました。
 ですが、徳川の衰退と共に、明治になり、日本の医師制度が西洋医学に統一され、漢方では生業が立ち行かなくなり、本というのは高いものなのですが、漢方の本の価値は地におちまして、そこらへんに捨てられるようになったんですね。
そこで、漢方の本を安く集めて、中国に送ったのが、孫文ら中国の知識人たちです。
だから多紀元堅などの本は、いまでも中国語で出版されて、私でも読めるんですね。

 かたや中国の漢方では、日本の比ではなくいろんな流派がありました。
 中国で漢方家の集会をしようとしたのですが、いろんな流派があってひとつのところに集めることが出来ない。みんなで頭を寄せて考え、経典のひとつである傷寒論を書いた張仲景象を作ってそこに集めたぐらい色々な理論がある。
 そして戦後、毛沢東さんが、田舎のほうにも医療をというので、西洋医学の薬は高くて手に入らない。だから手軽に手に入る漢方の学校を作ろうとする。しかし中国にはいろんな流派があって、とてもとてもまとまらない。
 でも、毛沢東さんが言ったことは神の声に等しいんですね。
 鶴の一声の号令のもと、もうとにかく作っちゃえと、中医学院というのを作った。
 そして理論もごちゃ混ぜにして、中医学という名前にしたのですが、それが前の中医学の実体でした。
 しかし、中国人は国家をあげて優秀な人が作るものですから、だんだんいいのが出来る。そして中医学院も大学に昇格され、いまや世界的にも一番とも呼べるようになってきたんです。
 それが日本にも入ってきまして、中医学派として、ここ2~30年、だんだん増えてきまして、薬局漢方では主流になりつつあります。

 これまで駆け足で話してきましたけど、日本には、古方派、後世方、考証学派、中医学派の4つがあります。
 これをひとつの漢方団体としようという動きもありますが、各流派で話している言語、それ自体に違いがあり、お互いの言っていることが通じないという弊害もあります。

 たとえば、「実証」という言葉ですが、古方派では「がっちりした丈夫な人」という意味で使われますが、考証学派や中医学派では、「邪が過剰」な場合を指します。「実」とは過剰という意味でつかわれ、邪実と呼ばれています。
 さらに虚証とは、「やせて弱々しく冷え性」みたいなイメージで捉えられていますが、虚は不足の意味で、「虚証」は正気の不足、正虚の意味で言われます。
 実は江戸時代は、古方派も「実は過剰、虚は不足」という意味で使ってたのですが、明治に入り、伝統医学は家伝薬ぐらいにしか使われず、さらに戦争が始まり薬草が手に入らなくなり、絶滅寸前の漢方家達は、薬草もないので日本独特の薬草を作る。「人参がないから、おらの裏山にある、竹節人参を使うべ」と四苦八苦していた。

 そして戦後、若い漢方家を育てようとしたのですが、まずはわかりやすい方法として、実証とは「丈夫でがっちりした人」と言う意味で使ったようです。
 山田光胤先生は、実証と虚証の間のひとを中間証と呼ぶようにしているところをみると、変更する気は、当分ないかとも思います。

 もうひとつ大きな違いが、証の捉え方です。
 古方派は、「方証相対」といいまして、処方名がそく証である(証とはあかし、その人の状態を言います)といいますが、かたや中医学派や考証学派は、「証とは、今、体に何が起こっているかをあらわすあかし」として『証』を使います。
 だから古方派が、「この人は実証で、葛根湯証だ」といえば、われわれは「この人は、見た目が丈夫そうでがっちりしていて、いま風寒の邪に犯され、頭痛・発熱・悪寒があり、方が凝っていて、葛根湯を使いたいタイプなんだな」と通訳が必要なわけです。